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2015年10月19日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

船は隔たりを道へと変える(ハワイ諸島)

太平洋に浮かぶ島々・ハワイ諸島。透き通る海や温暖な気候に、誰もが一度は憧れを抱いたことがあるでしょう。そんな島国であるハワイ諸島に欠かせない存在だったのは、やはり船でした。今回は、ハワイ諸島の歴史と船の関係について調べてみました。
 
ハワイ諸島の歴史は6~7世紀ごろ、現在のネイティブ・ハワイアンと呼ばれる人々の起源である、古代ポリメシア人によって始まりました。ハワイ諸島は日本のように大陸が分かれてできた島国でなく、海底から隆起してできた島国です。古代ポリメシア人は今日、船で海を渡ってハワイ諸島にやってきたと考えられています。
「カタマラン」と呼ばれるこの船は、一般的に見られる、船体が1つの「単胴船」とは異なり、船体が2つある「双胴船」です。2つの船体が横並びにデッキで繋がっていることで船自体が安定し、転覆したり横倒しになったりする心配がほとんどありません。また、単胴船の船よりも大きな帆をつけることができ、それをつけることでより大きな船の推進力を得ていました。当時の人々は離れた地へ向かう技術を、単胴船をもとに考え、発展させてきたようです。
 
では当時、その船はどこから来たのでしょう。意外なことに、それは東南アジアだという説があります。
ハワイ諸島は北半球、東南アジアは南半球。一見遠方の地のように思われますが、当時の人々は、船の始まりとも言える「いかだ」を発展させた「カヌー」に乗り、太平洋の島々を移動していました。船があれば、海は隔たりでなく道になったのです。こうして育まれた文化が「太平洋文化」です。実際、太平洋で結ばれた無数の島々は、言語学・考古学の観点から歴史的な繋がりを有していることが分かっています。
さらに人々は船をカヌーからカタマランに発展させ、今日のタヒチからハワイ諸島まで現在距離にして約4400キロの大航海を成し遂げ、ハワイ諸島の文化を築いてきたと考えられています。
 
実はこの考え方は、39年前に立証されたばかりのものです。1778年、英国海軍のキャプテン・クックがレゾリューション号とディスカバリー号で航海中にハワイ諸島を「発見」、ハワイ諸島に上陸した、という歴史的記述があります。当時の英国の技術をもってすると可能に思われますが、対して6~7世紀ごろに先の航海をカタマランで成し遂げた、ということは、比較すると本当かどうか疑わしい、と考えられてきたのです。
カタマランによる航海を立証したのが、1976年、ハワイのポリネシア航海協会による、ホクレア号の航海でした。カタマランを再現したホクレア号は、昔からポリネシアで用いられていた航行手段…太陽・月・星・風向き・海の潮流・雲と波の様子のみで、タヒチへの往復航海を成功させたのです。この成功は、ネイティブ・ハワイアンを歓喜させ、自分たちの伝統文化に誇りを持たせる最高の結果となりました。現在のハワイ諸島の文化の基礎を支えるものになった、とも言えるほどの大きな出来事となったのです。
 
今日カタマランは、エンジンやスクリューがついた現代の技術を取り入れた仕様の船へと変化したものの、ハワイ諸島だけでなく世界的にごく日常的な船の形式として用いられ、昔と同じようにまだまだ現役で海上での移動に欠かせないものになっています。
人々の移動手段としてはもちろん、その土地の文化をも形成してきた太平洋を往来する船。道なき道に航路を作ることができる船は、ハワイ諸島という遠い島国に、形あるものだけでなく形のないものも運び、育むという役割を果たしてきたことが分かりました。ハワイ諸島と船は、これからも強い絆で結ばれていくことと思います。
 
ロンリープラネット日本語版編集部 日本人がまだまだ知らないハワイ 旅のヒント・コラム 138 メディアファクトリー 2009
矢口 祐人 踊る東大助教授が教えてくれたハワイとフラの歴史物語 イカロス出版 2005
池田良穂 プロが教えるふねのすべてがわかる本 つくり方からしくみまで ナツメ社 2009
道端ジェシカ Jessica's Private Hawaii 宝島社 2013

【担当:石井 涼子】


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