連絡船レポート

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2018年07月24日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

連絡船の思い出トーク

玉野市にお住いの吉田信行さんから、宇高連絡船「阿波丸」の模型を見せていただきました!


宇高連絡船「阿波丸」模型(制作:南石さん)

吉田さんは連絡船愛好會メンバーで、「撮り船」フォトコンテストにもたくさんの写真を応募してくださっています。宇野港の近くで生まれ育った吉田さんは、子どものころから毎日のように行き交う船を眺めていたそうで、連絡船にかける情熱は人一倍!
「阿波丸」は昭和42年(1967年)10月1日から宇高航路に加わった連絡船です。昭和63年(1988年)4月9日宇野発高松行きの臨時最終便として最後の運行を終えるまで活躍していました。
<阿波丸:船舶情報>
全長:89.4m、総トン数:約3,080トン、:航海速力:15.25ノット、旅客定員2,350人
模型をよく見ると、一番下の甲板にレールが3本敷かれているのがわかります。レールは列車の線路です。これを、港にあった陸上の線路と接続すれば、列車を船に積み込むことができたのだそうです。



レールは船内の反対側まで続いていて、レール1本につき車輌が8台、合計24台もの車輌を搭載することができたとか!



いちばん上の甲板の紅白幕の奥にはうどんの売店があったそうです。
連絡船といえば「連絡船うどん」と話してくれる方が多いですが、こんなところで販売されていたんですね!
実際の連絡船を見たことのない私たちにも、こうした模型があるとイメージしやすくなります。
吉田さんが、連絡船最終運航日の翌日、昭和63年(1988年)4月10日に行われた連絡船の謝恩航海の思い出を語ってくれました。
この日、宇野側から出港した「伊予丸」に乗船して、海上で、高松側から出港した「土佐丸」「阿波丸」「讃岐丸」の3隻と「伊予丸」が一列に並ぶのを見たそうです。
その時撮影した写真がこちら。


宇高連絡船「謝恩航海」

この時、「さようなら~」の合図の警笛が、1隻ずつ順番に鳴らされた記憶は、今でも脳裏に焼き付いているそうです。当時36歳。若かったけれど涙が出た。あの時のことは、一生忘れない…としみじみ語ってくれました。


「阿波丸」船体の赤は「情熱」の赤!と思い出を語る吉田さん
宇野港で、吉田さんに会うと、連絡船の熱い思い出トークが聴けますよ。吉田さん、ありがとうございました!
 

2017年12月21日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

宇高連絡船愛好會 三村さん解説 その4・5

お待たせしました!
宇高連絡船愛好會長の三村さんによる「撮り船」フォトコン応募作品の解説その4とその5です!!

三村會長の解説 その1はこちら
http://archive.city.tamano.lg.jp/renrakusen/research/research_detail/index/42.html
三村會長の解説 その2はこちら
http://archive.city.tamano.lg.jp/renrakusen/research/research_detail/index/43.html
三村會長の解説  その3はこちら
http://archive.city.tamano.lg.jp/renrakusen/research/research_detail/index/44.html

4枚目は、谷井 宏光さんの「出港直前の眉山丸!!」です。
昭和36年4月頃のお写真で、谷井さんが大学に合格しその地へ向かう時の写真だそうです。
可動橋が外されまさに出港直前です。手を振っているのが谷井さんです。



【三村さん解説文】
「連絡船の桟橋」と言っても、年代や船型の変化、乗客の増加によって形状や場所が刻々と変化している。
宇高連絡船の場合も客船時代は乗客用の浮き桟橋に始まり、その数も2脚、3脚と増加、配置もT字から直線に変化してきた。
第2次世界大戦後の車載客船(一般的には客貨船)時代になると陸に接岸するようになり、建屋からの乗船タラップを使用するようになった。
そのタラップも屋根無しから屋根付き、駆動方式や材質などの形状変化が数回実施された。
写真は昭和36年春との事で、宇高国道フェリーの就航や宇野線の特急開通直前の頃で、宇高連絡船が航路上で大きなライバルも無く、鉄道上の接続も比較的慌ただしくなかった頃の様子である。


5枚目は、同じ日に撮影された、谷井さんの「見送りの方々」です。
船内まで見送りに来てくれた方々との懐かしい思い出のお写真です。



【三村さん解説文】
第2次世界大戦後、物資が無いにもかかわらず、本四間の輸送を維持させる為に建造された「紫雲丸型」3隻。昭和22~23年に就航し、戦後復興期から高度成長期までの日本を支え続けて昭和41~42年に引退した。
日本が活気づいていた昭和30年代、連絡船のデッキには希望と温かさが満ち溢れていた。当時の国鉄は等級制が採用されており、天井には「2等室入口」の案内板が見える。
 

2017年11月01日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

宇高連絡船愛好會 三村さん解説 その3

宇高連絡船愛好會長の三村さんによる「撮り船」フォトコン応募作品の解説その2です!!

三村會長の解説 その1はこちら
http://archive.city.tamano.lg.jp/renrakusen/research/research_detail/index/42.html
三村會長の解説 その2はこちら
http://archive.city.tamano.lg.jp/renrakusen/research/research_detail/index/43.html

3枚目は、髙城 進さんの「みんな注目!!」です。
撮影時期は、昭和30年12月の時のもの。
働きはじめたお給料で初めて買ったカメラで撮影された1枚です。




【三村さん解説文】
昭和30年5月の宇高連絡船史上最悪の「紫雲丸事故(168名死亡)」の後、国鉄による連絡船への安全対策が早急に行われた。
その1つが救命具の増設と扱い方の徹底である。
写真は昭和30年末撮影らしく、窓の形状から、事故対策工事完了前の「眉山丸」か「鷲羽丸」と思われる。
宇高連絡船の救命胴衣は、固型式と呼ばれる発砲スチロール入りの紐を結ぶタイプで、着用方法を乗船客に説明していた様子である。ただ、船員の負担も大変であるし、お客も乗って早々に救命具の着用について説明されてはさぞかし不安であったと憶測してしまう。
その後は救命胴衣の保管場所や着用方法のプレートの掲示とマネキンによる着用例が設置され、人的な説明は無くなった。

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まず、連絡船上で救命胴衣の装着方法の説明が行われていたことに驚きました。
皆さまからの応募写真から初めて知ること・勉強になることが、たくさんあります。

また、三村さんのように知識が豊富な方からたくさんの情報を教えていただき、有り難いかぎりです。
少しでも多くの方に情報発信できればと思います!
 

2017年11月01日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

宇高連絡船愛好會 三村さん解説 その2

宇高連絡船愛好會長の三村さんによる「撮り船」フォトコン応募作品の解説その2です!!

前回解説はこちら
http://archive.city.tamano.lg.jp/renrakusen/research/research_detail/index/42.html

2枚目は、田角優子さんの「宇高連絡船最後の切符」です。
宇高連絡船最終便のお写真で、タイトルも素敵なこちらのお写真。
実はとても貴重な1枚だったんです!



【三村さん解説文】
一見、普段の深夜便のように見えますが、これは宇高連絡船最終日の4月10日に極秘運航された「讃岐丸」です。(ダイヤ上は4月9日分)
 運航会社側は、連絡船最後の日、最終便に乗客が殺到するのを防ぐ為、第27便(宇野からの最終便)を「A」「B」と2隻体制にしていました。これを公表する事で大混乱を防ごうとしていたのです。
 しかし、それでも混乱が予想された為、極秘に「C」を用意していました。この便には、前年11月に定期便から引退し、3月に観光船に改造されて再就航した「讃岐丸」が充てられていました。この写真は舷側のラインから「讃岐丸」と判別できます。
 この便は、宇野での積み残し客のみを乗せていたので大きな混乱も無かったようです。その分、記録写真も皆無に等しい事から、この写真は大変貴重であると考えられます。

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「撮り船」フォトコンテストをきっかけに、このような貴重なお写真が、今後もたくさん集まることを期待しています。

 

2017年06月30日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

宇高連絡船愛好會 三村さん解説 その1

宇高連絡船愛好會長の三村さんに、これまでの「撮り船」フォトコンテストに応募のあった、
宇高連絡船の写真を解説していただく勉強会を実施しました。
第1回第2回の宇高連絡船に関する応募写真約200点を全てみていただき、年代や船の特徴
その時代のエピソードなどを教えていただきました。
幼少期から連絡船に興味を持ち、実際に何度も宇高連絡船に乗り、現在まで調査研究を深めてきた
三村さんの知識量に驚きつつも、より興味関心の深まる勉強会になりました。

 

最終的に三村さんには「特に貴重な写真」6枚を選んでいただき、解説文をいただきましたので
ご紹介します!

まず1枚目がこちら。平子 武さんの「貸車専用輸送」です。


【三村さん解説文】
この写真は、宇高連絡船「第一宇高丸(だいいちうこうまる)」への貨車積み込みを
撮影したものである。
大きな特徴は、積み込み時には貨車を機関車が「牽引」するのではなく、「押し込
み、引き出し」する事である。また、航送施設(以下、可動橋という)に重量のある
機関車が入って可動橋を壊してしまわないよう、控車(手摺と台車だけの車両が写真
では確認できる)を数両繋いで作業を行う事も挙げられる。
当時の小型船用可動橋は満潮用と干潮用があり、作業風景の物は満潮用で、左側に柱
が見えているのが干潮用である。柱の高さが異なるのが分かる。レールの高さ調整は
電動ではなく、滑車を使った手作業である。この写真から、初期の貨車航送の苦労が
伝わってくる。
「第一宇高丸」には「第二宇高丸」という姉妹船がおり、共にワム15トン貨車で1
0両積める貨車航送船である。主な相違点は操舵室の支柱の形状である。また、時期
によっては操舵室の幅の違いがある。また、国鉄の小型貨車航送船の特徴として、操
舵室の窓下にローマ数字が書かれている時期がある。


残り5枚の解説もいただく予定ですので、お楽しみに♪

2016年12月12日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

懐かしき宇高連絡船

連絡船の町プロジェクト事務局へ「撮り船」フォトコンテスト応募作品と一緒に1通のお手紙をいただきました。
なんと、宇高連絡船の写真展を開催しているとのこと!!
早速、プロジェクトメンバーで伺ってきました。

展示されている写真を撮影されたのは、倉敷市在住の河田 隆弘さん。
私達の急な取材依頼を快く受け入れてくださいました。


展示会場には、とても貴重な宇高連絡船の写真がたくさん展示されていました。
昭和63年の写真とは思えないほど高画質!いかに大切に保管されていたかがわかります。


河田さんが写真を撮り始めたのは16歳頃。お給料を貯めて初めて当時500円のカメラを購入したそうです。
主に風景や電車・船などを撮影した写真達は、今もなお様々な場所に展示されており、見る人に懐かしさを与えてくれています。


今回連絡船の町プロジェクトへのアーカイブにもご協力いただけるとのことで、多数のお写真をお預かりしました。
これらのお写真は、近々フォトコンテスト作品一覧に掲載いたしますので皆様お楽しみに!

河田 隆弘さん、そして素敵な思い出話を聞かせていただいた奥様、本当にありがとうございました。

河田さんの写真展は12月20日まで開催中です。
素敵なお写真ばかりなので、ぜひ会場で懐かしさに浸ってみてださい。

 

2016年04月11日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

フェリー模型vol.2

趣味で船の模型を作られている、玉野市在住の岡田さんから
「新しいフェリーが完成したよ!」という連絡があり、再びご自宅にお伺いしました。
 
前回同様、玄関に入るとすぐに、
ドーン!!

これ乗ったことがある!!知ってる!!と思わず声に出したほどなじみのある船体。
鮮やかなオレンジ色の化粧煙突が特徴の、四国フェリーの第八十五玉高丸です。


 
さっそく食い入るように拝見。
 
客室に上るまでの階段
窓枠の木製の手すり                                                                           
よく長距離トラック運転手さんが仮眠をとっている長椅子
ボックス席には、備え付けのテーブル
テレビに、ごみ箱に至るまで!どれをとってみても精巧に再現されています。
  


見えますか? 売店です。


カメラには収められませんでしたが、自動販売機も再現されていました。
 
そして、何より今回は、
船内が明るい!電気がつく!!!!
椅子や机の色は、岡田さんの遊び心でカラフルに仕上がっています。
実は、この椅子と机を一つ一つ制作することが、細かい作業なので一番大変だったそうです。
(前回の「なおしま」のほうが、客席数が500席と多く、今回の「玉高丸」のほうが300席と少なかったそうですが、それでも大変なことに変わりはありません。)
 
もちろん、内部だけではなく船体も精巧。
     
今にも動き出しそう!!
 
制作期間は、約2か月。
岡田さんは、元々市内の造船会社で、船の点検や修理をする仕事に携わっていらっしゃいました。その関係で、様々な種類の船を見てきており、構造にも詳しい。
このようなすばらしい作品ができあがったことも納得です。
 
実は、こっそり現在作成中の船も見せてもらいました。

 
船は場所と場所をつなぐものですが、船(フェリー)模型を作ることで仲間とつながり、交流の輪が広がったという素敵なお話も聞かせてもらいました。
船が大好きだとおっしゃる岡田さん、今回も快く見せてくださりありがとうございました。
次回作も楽しみです!
 

2016年01月21日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

1月勉強会ゲスト!

今日の勉強会は、かつて連絡船で仕事をされていた岩瀬さんの話を伺いました。

運賃、船の構造から連絡船うどんや船長の思い出まで楽しく聴かせて頂きました。

そしてなんと貴重なホバークラフトの時刻表をいただきました!
高松-宇野が23分で移動できていたなんて驚きですね!


また、圧巻だったのは、当時岩瀬さんが担当されていた船内のアナウンスを実演して頂いたこと。
まるで連絡船に乗船しているような、素敵な一時でした。

岩瀬さん本当にありがとうございました!
(塚田)

2016年01月06日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

昔のフェリーの速度計

今回は昔のフェリーの速度計を寄贈していただけるということで,玉野市在住の玉積さんのご自宅へお伺いしました。
 
速度計って一体どんなものなんだろう?と思いながらさっそく拝見させていただくと…

 なんともお宝感あふれるものが出てきました!しかもこの速度計,新品未使用なんだそうです!
確かにきれいですね。
 
今回寄贈いただいたものは,パテント・ログとハンド・ログというかなりアナログな方法で速度を計測するもののようです。
 
寄贈していただいたものの一式の画像です。

 
 
まずはパテント・ログの紹介から。

このスクリューを海中に落とし,



その回転数をこの速度計で測るという仕組みの様です。
もちろんこちらも新品未使用です!
 
 

ここでは木箱の仕切りが邪魔をして取り出せなかったのですが,このハンドルのようなものは調速機というもののようです。

 

全部をつなげてみた様子です。使用するときはハンドルとスクリューの間にロープの束をつなげます。


 
このロープの束はハンド・ログといってパテント・ログより更に昔の速度計です。
三角形の板を海に垂らし,ロープがすべて出るまでの時間をもとに速さを計測するそうです。

 
 
これらの速度計は玉積さんが四国汽船で働いていたとき,フェリーの「せと」がクロアチアへ売却される際,譲り受けたそうです(1995年頃)。
速度計をくるんでいた新聞紙は昭和37年のもので,製造されてからかなりの年月がたっていることがうかがえます!


 
今回寄贈していただいた速度計は玉野海洋博物館にて展示予定です!
楽しみですね!

今回は昔の速度計のレポートでした!
玉積さん大切なお宝をありがとうございました!
 

(谷口)

2015年11月24日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

宇高航路のお宝発掘

宇高航路のお宝発掘
~故・宇高航路 一等航海士 川西隆大さん~
 
高松市にお住いの川西徳大さんから、宇高連絡船にまつわる貴重な資料をお借りしましたので、ご紹介します!
 
大正13年生まれの川西さんのお兄さん(故人)は、なんと長年、宇高連絡船の運航に従事されていたそうです!
お兄さんの船員手帳や海技免状、無線従事者免許証、船員手帳、など貴重な資料を見せていただきました。

いちばん古い船員手帳は昭和23年3月8日に公布されたもの。
表紙には、「第三宇高松 川西隆大」というゴム印が押されています。

この手帳、記録は昭和22年9月1日付で航海中に操舵手として雇入されたところから始まります。

紫雲丸や、眉山丸、鷲羽丸の運航にも携わっていたことがわかります。

いちばん新しい船員手帳は、昭和53年2月17日交付のもの。

昭和53年2月21日に宇高航路の一等航海士になったことが記録されていました。宇高航路の終焉を見届け、昭和54年4月1日付で退職されたのでしょうか「雇止」に日付が記入されて記録が終了していました。
(そのあとに続く、国鉄OB会の会員証まで、大切に保管されていました。)
 
ページをめくるごとに、宇高航路の歴史を辿っているようで、わくわくしてきます。
 
そして、ずしりと重みのある「阿波丸」と書かれた鐘!
号鐘でしょうか?今でもよく音が響きます。
(号鐘は、「海上衝突予防法」で、長さ100メートル以上の船舶に備え付けることが義務付けられているものです。)

そして、宇高連絡船が終焉を迎える1年前の1987年3月号の時刻表もありました!
ちょうど国鉄が民営化されJRに代わる直前のもので、背表紙にはしっかり「日本国有鉄道」と印刷されているんですよ。

「エキゾチックジャパン」の文字に時代を感じますねー。
 
そしてよくよく見ると…
昭和62年3月1日の高松桟橋のスタンプが押してあります!

中にはもちろん、宇高連絡船の時刻も、掲載されています!
そのほか、入場券や回数券の説明など、あらゆるところに「連絡船」の説明も組み込まれていました。
 
この時刻表によると…
宇高連絡船の運賃 500円(こどもは半額)
急行料金(宇高ホーバー券) 1100円(こどもは半額)
グリーン料金(自由席)500円(おとな・こども同額)
 
当時の宇野駅は、寝台特急「瀬戸号」も発着していました。「瀬戸号」から宇高連絡船に乗り継ぎ、四国の高松駅発着の特急、急行列車にその日のうちか翌日に乗り継ぐと、四国内の特急料金、急行料金、指定席料金は半額になったそうです。
新幹線から在来特急、急行に乗り継ぐときの割引と同じですね!
 
ちなみに、連絡船の紹介ページに一緒に掲載されていたのは青函連絡船と、宮島連絡船の二つでした。
 
川西さん、貴重な資料を、ありがとうございました!
 
(斉藤)

 


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