2017年12月21日│連絡船の町プロジェクト・勉強会
お待たせしました!
宇高連絡船愛好會長の三村さんによる「撮り船」フォトコン応募作品の解説その4とその5です!!
三村會長の解説 その1はこちら
http://archive.city.tamano.lg.jp/renrakusen/research/research_detail/index/42.html
三村會長の解説 その2はこちら
http://archive.city.tamano.lg.jp/renrakusen/research/research_detail/index/43.html
三村會長の解説 その3はこちら
http://archive.city.tamano.lg.jp/renrakusen/research/research_detail/index/44.html
4枚目は、谷井 宏光さんの「出港直前の眉山丸!!」です。
昭和36年4月頃のお写真で、谷井さんが大学に合格しその地へ向かう時の写真だそうです。
可動橋が外されまさに出港直前です。手を振っているのが谷井さんです。
【三村さん解説文】
「連絡船の桟橋」と言っても、年代や船型の変化、乗客の増加によって形状や場所が刻々と変化している。
宇高連絡船の場合も客船時代は乗客用の浮き桟橋に始まり、その数も2脚、3脚と増加、配置もT字から直線に変化してきた。
第2次世界大戦後の車載客船(一般的には客貨船)時代になると陸に接岸するようになり、建屋からの乗船タラップを使用するようになった。
そのタラップも屋根無しから屋根付き、駆動方式や材質などの形状変化が数回実施された。
写真は昭和36年春との事で、宇高国道フェリーの就航や宇野線の特急開通直前の頃で、宇高連絡船が航路上で大きなライバルも無く、鉄道上の接続も比較的慌ただしくなかった頃の様子である。
5枚目は、同じ日に撮影された、谷井さんの「見送りの方々」です。
船内まで見送りに来てくれた方々との懐かしい思い出のお写真です。
【三村さん解説文】
第2次世界大戦後、物資が無いにもかかわらず、本四間の輸送を維持させる為に建造された「紫雲丸型」3隻。昭和22~23年に就航し、戦後復興期から高度成長期までの日本を支え続けて昭和41~42年に引退した。
日本が活気づいていた昭和30年代、連絡船のデッキには希望と温かさが満ち溢れていた。当時の国鉄は等級制が採用されており、天井には「2等室入口」の案内板が見える。
2017年11月01日│連絡船の町プロジェクト・勉強会
宇高連絡船愛好會長の三村さんによる「撮り船」フォトコン応募作品の解説その2です!!
三村會長の解説 その1はこちら
http://archive.city.tamano.lg.jp/renrakusen/research/research_detail/index/42.html
三村會長の解説 その2はこちら
http://archive.city.tamano.lg.jp/renrakusen/research/research_detail/index/43.html
3枚目は、髙城 進さんの「みんな注目!!」です。
撮影時期は、昭和30年12月の時のもの。
働きはじめたお給料で初めて買ったカメラで撮影された1枚です。
【三村さん解説文】
昭和30年5月の宇高連絡船史上最悪の「紫雲丸事故(168名死亡)」の後、国鉄による連絡船への安全対策が早急に行われた。
その1つが救命具の増設と扱い方の徹底である。
写真は昭和30年末撮影らしく、窓の形状から、事故対策工事完了前の「眉山丸」か「鷲羽丸」と思われる。
宇高連絡船の救命胴衣は、固型式と呼ばれる発砲スチロール入りの紐を結ぶタイプで、着用方法を乗船客に説明していた様子である。ただ、船員の負担も大変であるし、お客も乗って早々に救命具の着用について説明されてはさぞかし不安であったと憶測してしまう。
その後は救命胴衣の保管場所や着用方法のプレートの掲示とマネキンによる着用例が設置され、人的な説明は無くなった。
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まず、連絡船上で救命胴衣の装着方法の説明が行われていたことに驚きました。
皆さまからの応募写真から初めて知ること・勉強になることが、たくさんあります。
また、三村さんのように知識が豊富な方からたくさんの情報を教えていただき、有り難いかぎりです。
少しでも多くの方に情報発信できればと思います!
2017年11月01日│連絡船の町プロジェクト・勉強会
宇高連絡船愛好會長の三村さんによる「撮り船」フォトコン応募作品の解説その2です!!
前回解説はこちら
http://archive.city.tamano.lg.jp/renrakusen/research/research_detail/index/42.html
2枚目は、田角優子さんの「宇高連絡船最後の切符」です。
宇高連絡船最終便のお写真で、タイトルも素敵なこちらのお写真。
実はとても貴重な1枚だったんです!
【三村さん解説文】
一見、普段の深夜便のように見えますが、これは宇高連絡船最終日の4月10日に極秘運航された「讃岐丸」です。(ダイヤ上は4月9日分)
運航会社側は、連絡船最後の日、最終便に乗客が殺到するのを防ぐ為、第27便(宇野からの最終便)を「A」「B」と2隻体制にしていました。これを公表する事で大混乱を防ごうとしていたのです。
しかし、それでも混乱が予想された為、極秘に「C」を用意していました。この便には、前年11月に定期便から引退し、3月に観光船に改造されて再就航した「讃岐丸」が充てられていました。この写真は舷側のラインから「讃岐丸」と判別できます。
この便は、宇野での積み残し客のみを乗せていたので大きな混乱も無かったようです。その分、記録写真も皆無に等しい事から、この写真は大変貴重であると考えられます。
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「撮り船」フォトコンテストをきっかけに、このような貴重なお写真が、今後もたくさん集まることを期待しています。
2017年06月30日│連絡船の町プロジェクト・勉強会
宇高連絡船愛好會長の三村さんに、これまでの「撮り船」フォトコンテストに応募のあった、
宇高連絡船の写真を解説していただく勉強会を実施しました。
第1回第2回の宇高連絡船に関する応募写真約200点を全てみていただき、年代や船の特徴
その時代のエピソードなどを教えていただきました。
幼少期から連絡船に興味を持ち、実際に何度も宇高連絡船に乗り、現在まで調査研究を深めてきた
三村さんの知識量に驚きつつも、より興味関心の深まる勉強会になりました。
最終的に三村さんには「特に貴重な写真」6枚を選んでいただき、解説文をいただきましたので
ご紹介します!
まず1枚目がこちら。平子 武さんの「貸車専用輸送」です。
【三村さん解説文】
この写真は、宇高連絡船「第一宇高丸(だいいちうこうまる)」への貨車積み込みを
撮影したものである。
大きな特徴は、積み込み時には貨車を機関車が「牽引」するのではなく、「押し込
み、引き出し」する事である。また、航送施設(以下、可動橋という)に重量のある
機関車が入って可動橋を壊してしまわないよう、控車(手摺と台車だけの車両が写真
では確認できる)を数両繋いで作業を行う事も挙げられる。
当時の小型船用可動橋は満潮用と干潮用があり、作業風景の物は満潮用で、左側に柱
が見えているのが干潮用である。柱の高さが異なるのが分かる。レールの高さ調整は
電動ではなく、滑車を使った手作業である。この写真から、初期の貨車航送の苦労が
伝わってくる。
「第一宇高丸」には「第二宇高丸」という姉妹船がおり、共にワム15トン貨車で1
0両積める貨車航送船である。主な相違点は操舵室の支柱の形状である。また、時期
によっては操舵室の幅の違いがある。また、国鉄の小型貨車航送船の特徴として、操
舵室の窓下にローマ数字が書かれている時期がある。
残り5枚の解説もいただく予定ですので、お楽しみに♪
2016年01月21日│連絡船の町プロジェクト・勉強会
今日の勉強会は、かつて連絡船で仕事をされていた岩瀬さんの話を伺いました。
運賃、船の構造から連絡船うどんや船長の思い出まで楽しく聴かせて頂きました。
そしてなんと貴重なホバークラフトの時刻表をいただきました!
高松-宇野が23分で移動できていたなんて驚きですね!
また、圧巻だったのは、当時岩瀬さんが担当されていた船内のアナウンスを実演して頂いたこと。
まるで連絡船に乗船しているような、素敵な一時でした。
岩瀬さん本当にありがとうございました!
(塚田)