連絡船レポート

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2015年10月19日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

アフリカ大陸とヨーロッパ諸国を結ぶ連絡船 (モロッコ―スペイン)


こんばんは。アフリカの連絡船を調べるという宿題をもらったということで、私はモロッコとスペインを結ぶフェリーについて調べてみることにしました。
 は早速フェリーのお話に移りたいところなのですが、その前にモロッコという国を簡単に説明させていただきます。

モロッコはアフリカ大陸の北西に位置し、日本の約1.9倍の面積を持つ、大西洋と地中海に面した国です。北部はスペインの飛び地であるメリリャ、セウタに接し、南部には広大なサハラ砂漠が広がっています。実は日本と経度が変わらないので四季があります。観光地としては世界一の迷宮都市フェズや、青い街シェフシャウエンが有名な国です。
      

モロッコ⇔スペインの航路
・タンジェ⇔タリファ       
・ タンジェ新港⇔バルセロナ   ・タンジェ新港⇔アルヘシラス  ・ タンジェ新港⇔ジブラルタル(週二便)               
・セウタ⇔アルヘシラス
・ナドール⇔モトリル  ・ナドール⇔アルメリア
・アル・ホセイマ⇔モトリル     
・メリリャ⇔マラガ     ・メリリャ⇔モトリル     ・メリリャ⇔アルメリア
 現在 Balearia、Trasmediterranea、FRS、Naviera Armas、Grandi Navi Veloci、Grimaldi Lines、Inter Shipping の合計7社の会社が、このモロッコ⇔スペイン間のフェリーを運航しています。

         
ロッコのすぐ北、スペインからは多数のフェリーが運航されており、合計で毎日約40便もの船が行き来しています。この二つの国は肉眼で見えるほど隣接しており、最短ルートではアルヘシラス⇔タンジェ新港を30分で横断することができます。
 アルヘシラスの対岸に位置するジブラルタルはイギリスの海外領土であり、この港とタンジェ新港を結ぶフェリーは便数が週に二便と非常に少なく、アルヘシラスやタリファ起点の便数が多いため、多くの乗客はアルヘシラス港かタリファ港を利用しています。
        
て、モロッコからスペインへ船で入国する際に気を付けておいてほしいことがあります。それは、モロッコはアフリカ大陸からヨーロッパ諸国へ渡る玄関口であるので、偽造パスポートを使ってテロリストや不法就労者人物が入り込まないよう、入国審査を厳しく行っているということです。
もし旅行で二国をフェリーで横断するのであれば、スペインを観光してからモロッコに入国する方が審査がスムーズです。ちなみに時差は2時間です。

以上が今回私が調べたものです。もしモロッコかスペインに行かれることがありましたら二国をフェリーで横断してみてはいかがでしょうか。それぞれの全く異なる文化に触れることで、もっと素敵な旅を満喫できるかもしれません。

          
《参考URL》
“ダイレクトフェリーズ:世界最大のフェリー予約サイト ”<http://www.directferries.jp/>(アクセス日: 2015-09-01)

【担当:川上 順子】
 

2015年10月19日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

世界でいちばん美しい湖(グアテマラ)

「世界でいちばん美しい湖」
中南米 グアテマラ アティトラン湖の船のある暮らし
こえび特派員 中道 靖さん、洋子さん


私達が今住んでいるグアテマラのアティトラン湖では、村と村を繋ぐためにランチャ(スペイン語で小型船、ボート)と呼ばれる定期船が運航しています。
船でしか行けない、道が悪いので船の方が早い、と理由は様々ですが、とにかくこの船がみんなの足となっています。
起点となるパナハッチェル、サンペドロ・ラ・ラグーナを各30分毎に出発。間にある4つの村をメインに、途中のホテルや家に寄ったりしながら、片道約1時間かかります。
料金体系がとても面白く、
 
1.地元先住民価格
2.定住外国人価格
3.ツーリスト用価格(ふつうの旅行者)
4.ツーリスト用価格(湖畔の高級ホテルに宿泊してる人)
 
これを船のキャプテンが毎回、乗船客の顔を見て判断します。
私達は最初の半年、3のツーリスト価格で、「安くしてよー」などと交渉を続けて2.の長く定住している外国人価格になりました。2.定住外国人と3.ツーリストの価格では金額が2倍も違います。
 
乗船料は乗船距離にもよって変わりますが、
私達の住んでいる村サンマルコス・ラ・ラグーナからパナハッチェルまでの乗船料で比較すると、
1. 地元住民価格 8ケツァール(グアテマラ通貨)- 約130円
2. 定住外国人価格 10ケツァールー約160円
3. ツーリスト価格(普通の旅行者) 15-20ケツァール 約240円ー320円
4. ツーリスト用価格(湖畔の高級ホテルに宿泊している人) 30ケツァール以上―約480円以上
町に買い物に行く、バスに乗るために町に出る、隣村に友達に会いに行く。
ここは島でなく陸で繋がっていますが、車道が無いところもあるので、
ランチャはつねに生活に必要になってきます。
 
ちなみに、ここでは、ブラックコーヒー1杯が130円くらい。地元住民はコーヒー1杯分の価格で船に乗っています。
 
ちなみに、写真の対岸に見える山々は火山ですが、まるで島々のようで、瀬戸内の景色によく似ているんですよ!

【担当:斉藤 牧枝】

2015年10月19日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

水江の渡し(日本:倉敷市水江)

90年の歴史に幕 思い出をありがとう
~水江の渡し~ (倉敷市水江)
自転車も乗せられる無料の渡し船

 
 
90年にわたり、水江・船穂間の通学
など市民の足になってきた渡し船。市道の
ため、料金はなんと無料!水江側からの
乗船は、船穂側の船頭詰所に声を掛けるか挙手するなど
の意思表示で船を呼び寄せるなど、情緒ある全国的にも
貴重な渡し船です。
 
「水江の渡し」は大正14年の高梁川の大改修をきっかけに始まりました。
以前の高梁川は東西の2つの流れに分かれており、どちらも洪水により度々
大きな被害を出していました。
この被害を防ぐため大改修が行われましたが、川筋が変わったことで当時の村道が
水没したため分断された約40mの区間を渡し船によって結びました。
これが「水江の渡し」の始まりです。
 
乗船場周辺には豊かな自然が広がり、四季を通じて森林浴や草花・野鳥の観察を楽しむことができます。水江の渡しは生活の足としての交通手段にとどまらず散策などにも利用され、自然を楽しむ人を喜ばせてきましたが、代替交通手段となる高砂町中島柳井原線の高梁川新高梁の開通に伴い、運行は平成28年3月31日までとなっております。


<調査協力>倉敷市くらしき情報発信課
【担当:甫喜山 昇平】

2015年10月19日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

食文化の大動脈。北前航路(日本)

■北前航路(船)ってなに。
江戸時代に行商船のルートとして、瀬戸内海をとおって大阪、江戸へ向かう西廻り航路と、津軽海峡をとおって江戸へ向かう東廻り航路がありました。そのうち,西廻り航路を走る船を「北前船」と呼ぶようになったようですが、なぜ北前船と呼ぶのかについては、北廻り船がなまったという説、北前とは日本海の意味で日本海を走る船だからという説などがあるようです。
北前船として使用された船は、当時、貨物船として広くつかわれていた「弁才船」と呼ばれる船で、運行が盛んになるにつれて、走りやすくするための改造・改良が加えられていき、明治時代になっても、しばらく活躍していたようです。
 
■生活や食文化の交流に使われた北前航路
海の大動脈として物流を支えた北前航路は、海を渡る“総合商社”であったようです。本州からは、米や塩、薬、衣類などあらゆる生活物資を積み込み、商売をしながら日本海を渡り北海道に向けて北上しました。逆に、北海道からは、主に昆布や鰊、鮭、鱈などの海産物を運び、一回の航海の利益は現在の額で約1億円にもなったようです。そして、北前船によって各地の生活や食文化に大きな影響を与えたと言われています。

【担当:廣畑 一夫】 

2015年10月19日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

バンコクの市民の足(タイ)



【担当:木村 公香】


 

2015年10月19日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

船は隔たりを道へと変える(ハワイ諸島)

太平洋に浮かぶ島々・ハワイ諸島。透き通る海や温暖な気候に、誰もが一度は憧れを抱いたことがあるでしょう。そんな島国であるハワイ諸島に欠かせない存在だったのは、やはり船でした。今回は、ハワイ諸島の歴史と船の関係について調べてみました。
 
ハワイ諸島の歴史は6~7世紀ごろ、現在のネイティブ・ハワイアンと呼ばれる人々の起源である、古代ポリメシア人によって始まりました。ハワイ諸島は日本のように大陸が分かれてできた島国でなく、海底から隆起してできた島国です。古代ポリメシア人は今日、船で海を渡ってハワイ諸島にやってきたと考えられています。
「カタマラン」と呼ばれるこの船は、一般的に見られる、船体が1つの「単胴船」とは異なり、船体が2つある「双胴船」です。2つの船体が横並びにデッキで繋がっていることで船自体が安定し、転覆したり横倒しになったりする心配がほとんどありません。また、単胴船の船よりも大きな帆をつけることができ、それをつけることでより大きな船の推進力を得ていました。当時の人々は離れた地へ向かう技術を、単胴船をもとに考え、発展させてきたようです。
 
では当時、その船はどこから来たのでしょう。意外なことに、それは東南アジアだという説があります。
ハワイ諸島は北半球、東南アジアは南半球。一見遠方の地のように思われますが、当時の人々は、船の始まりとも言える「いかだ」を発展させた「カヌー」に乗り、太平洋の島々を移動していました。船があれば、海は隔たりでなく道になったのです。こうして育まれた文化が「太平洋文化」です。実際、太平洋で結ばれた無数の島々は、言語学・考古学の観点から歴史的な繋がりを有していることが分かっています。
さらに人々は船をカヌーからカタマランに発展させ、今日のタヒチからハワイ諸島まで現在距離にして約4400キロの大航海を成し遂げ、ハワイ諸島の文化を築いてきたと考えられています。
 
実はこの考え方は、39年前に立証されたばかりのものです。1778年、英国海軍のキャプテン・クックがレゾリューション号とディスカバリー号で航海中にハワイ諸島を「発見」、ハワイ諸島に上陸した、という歴史的記述があります。当時の英国の技術をもってすると可能に思われますが、対して6~7世紀ごろに先の航海をカタマランで成し遂げた、ということは、比較すると本当かどうか疑わしい、と考えられてきたのです。
カタマランによる航海を立証したのが、1976年、ハワイのポリネシア航海協会による、ホクレア号の航海でした。カタマランを再現したホクレア号は、昔からポリネシアで用いられていた航行手段…太陽・月・星・風向き・海の潮流・雲と波の様子のみで、タヒチへの往復航海を成功させたのです。この成功は、ネイティブ・ハワイアンを歓喜させ、自分たちの伝統文化に誇りを持たせる最高の結果となりました。現在のハワイ諸島の文化の基礎を支えるものになった、とも言えるほどの大きな出来事となったのです。
 
今日カタマランは、エンジンやスクリューがついた現代の技術を取り入れた仕様の船へと変化したものの、ハワイ諸島だけでなく世界的にごく日常的な船の形式として用いられ、昔と同じようにまだまだ現役で海上での移動に欠かせないものになっています。
人々の移動手段としてはもちろん、その土地の文化をも形成してきた太平洋を往来する船。道なき道に航路を作ることができる船は、ハワイ諸島という遠い島国に、形あるものだけでなく形のないものも運び、育むという役割を果たしてきたことが分かりました。ハワイ諸島と船は、これからも強い絆で結ばれていくことと思います。
 
ロンリープラネット日本語版編集部 日本人がまだまだ知らないハワイ 旅のヒント・コラム 138 メディアファクトリー 2009
矢口 祐人 踊る東大助教授が教えてくれたハワイとフラの歴史物語 イカロス出版 2005
池田良穂 プロが教えるふねのすべてがわかる本 つくり方からしくみまで ナツメ社 2009
道端ジェシカ Jessica's Private Hawaii 宝島社 2013

【担当:石井 涼子】

2015年10月19日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

『船』の起源~人類最古の交通機関~

『船』の起源~人類最古の交通機関~

1 船のはじまり
大海原をゆったりと進む船の姿は美しいものです。海を渡って他の場所へ行くことは、いつの時代も人々の憧れだったに違いありません。船の歴史は、人類の歴史とともに始まったとも言われています。
歴史上、誰が船を最初に発明したか、どのようなものであったかは、わかっていませんが、船の始まりは、大昔、水辺に住み着いた人類が、水面を流れる木の枝に、小鳥や虫たちが乗っているのを見て、その浮力に気づき、やがて、イカダや丸太舟などを考案した事だとされています。
こうして、船という形はできあがりました。いつの頃かはっきりしませんが、考古学的に知られている限りは、
中国浙江(せっこう)省の河姆渡(かぼと)遺跡(紀元前7000年~5000年頃)から、丸木舟の断片が発見されています。また、初期の船の材料としては、葦も多用されたと考えられます。古代エジプトやチグリス・ユーフラテス流域では葦の船が一般に用いられたようですが、葦船は遺物が残りにくく、考古学的には物証が得られていません。もっとも古い船の原型の一つは、丸木舟であるようです。その他にも、材木を束ねた筏、木の枝を組み合わせた骨組みに動物の皮をカバーにした皮船などがあります。
これらの船は、現在でも世界各地で使われています。チベットに見られる皮袋の船、南アメリカのチチカカ湖の葦船、アフリカのナイル川で見られるパピルスの舟などがあります。

2 日本の船、海運
(1)先史から中世へ
日本でも縄文時代の遺跡の中から丸木舟が出土しており、先史時代の発見例はおおよそ200例ほどあります。また、古事記に水蛭子(ひるこ)をこの舟に乗せて流した話も残っています。7世紀から8世紀にかけて、遣唐使船(大きさは長さが30m、幅7~9m、排水量約300t、帆柱2本で平底箱型。鉄釘はほとんど用いず、平板をつぎあわせて造っていました。そのため波切りが悪く、不安定で、強風や波浪に弱いという欠点がありました。)など海外渡航用の船の多くが瀬戸内地方の安芸国(現在の広島県)で造られていました。はっきりとしたことは、明らかになっていませんが、このあたりが古くから造船の町であったことがうかがわれます。
鎌倉時代になると、平安時代から活発であった内海地域の経済活動が日宋貿易に刺激さ
れて活況を帯び、この頃、瀬戸内海においては年貢輸送の他商品輸送も増加し、港湾都市が繁栄しました。

(2)近世
中世のアジア貿易の遺産を受け継いだのが朱印船です。朱印船は、16世紀末から17世紀初頭にかけて江戸幕府から異国渡海朱印状を交付されて渡航した貿易船で、当時日本と外交関係があったポルトガル、オランダ船や東南アジア諸国の支配者の保護を受けることができました。
この頃、民間で使用される船としては、河川での運搬に高瀬舟、漁撈に使われた平田舟、伝馬船などがありましたが、搬送性能と経済性の高さから発達したのが千石船と俗称される弁財(べざい)船(弁才船)です。中世末期から瀬戸内海を中心に発達した商船で、江戸時代前期以降、国内海運の主役として活躍しました。
江戸時代になると船の往来はますます頻繁となり、瀬戸内海の海運は黄金期を迎えまし
た。江戸時代の中期には大坂と蝦夷を結ぶ北前船が登場し、それ以降、沿岸の港に立ち寄らず瀬戸内海の中央を抜けていく沖乗り航路が発達しました。この航路は鞆から地乗り航路と分かれ、弓削島、岩城島、木ノ江、御手洗等の芸予諸島の中央を貫いて、津和地、上関で合流するルートをとるものであり、これに沿って弓削島、御手洗などに風待ち、潮待ちの港ができ、新たに町も形成されて活況を呈していきました。
また、将軍の代替わりごとに朝鮮から朝鮮通信使が派遣されることになり、慶長10年(1605)から文化8年(1811)にかけて計12回朝鮮通信使が来朝し、延べ約400名の朝鮮使が瀬戸内海の港町を通っていきました。
さらに、日本各地の産物は、千石船、弁財船によって全国的に運ばれました。大阪が経済拠点として発展したことに加え、西廻り航路の開設もあいまって、瀬戸内海も全国的な流通経済の中に組み込まれ、瀬戸内海海運時代の最盛期を迎えることになりました。

(3)近代
明治期に入っても10年代までは北前船等帆船が用いられ、江戸時代の航路もほぼ維持されていましたが、蒸気船や機帆船の登場や、明治20年代の山陽鉄道の整備などにより、かつての帆船時代の寄港地は徐々に衰退していき、「瀬戸内の港は、まるで水から引きあげた切花のように凋んでしまった」と言われるほど寂れていきました。


船の歴史を探ると人類の歴史が見えてくる!
宇野港「連絡船の町」プロジェクト
参考文献
 
・徹底図解 船のしくみ―人類最古の交通機関「船」の歴史とそこに使われる技術
出版:新星出版社編集部(編集)
 
・図説 船の歴史
著:庄司 邦昭  出版:河出書房新社
 
・面白いほどよくわかる船のしくみ―船の起源から・種類・構造・走るメカニズムまで (学
校で教えない教科書)
著:賞雅 寛而(たかまさ ともじ) 出版:日本文芸社
 
参考資料
 ・公益財団法人千葉県教育振興財団のウェブサイト(丸木舟の写真)
 ・ウェブサイトWikipedia「弁才船」「遣唐使」

【担当:大倉 明】
 

2015年10月19日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

離島の連絡船(日本)


【担当:金嶋 彩子】

2015年10月19日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

ベトナムの連絡船(ベトナム)

ベトナムでは,メコン川を中心に多くの渡し船が存在します。
メコン川は多くの支流に分かれ,農業用,輸送用の水路も網の目のように張り巡らされています。
このため,渡し船はベトナムでは,重要な交通手段の一つになっており,橋は水路の交通の妨げになるため以前はあまり架かっていませんでしたが,近年は交通網の発達によりその限りではないようです。
船の特徴として,陸路では「オートバイ」「自転車」が主な移動手段になるため,ベトナムの渡し船は車両での乗船を考慮されています。
右下の写真のようにデッキがそのまま波止場の地面と一つになるようになっています。乗船料は約30円~35円程度です。

  
「ベトナムの渡し船」                    「船内の様子」
(写真出典:http://sekaikenbunlog.com/0050-vietnamより)

また,水運の発達しているベトナムでは水上市場があり,庶民の生活の場となっています。
カントー市のカイラン水上マーケットはアジアで最も美しい水上市場といわれており,ベトナム観光の定番の一つにもなっています。                                                               
多くは早朝6時ごろから始まり,昼前には終わってしまいます。
売買される品物は,果物や農作物が中心となっていますが,珍しいところではヘビ、トカゲ、カメ、リスなども販売されているようです。
しかし,以前は活気のあった市場のようでしたが,上にも挙げたように,現在は交通網の発達により衰退しているようで,観光客のために存続している意味合いが強いようです。
以前からあったものが新しいものにとって代わられていく様子は,便利になっていく一方なにか残念な気持ちになってしましました。


  
  (写真出典:http://vietnam.navi.com/miru/258/)

【担当:谷口 祐也】
 

2015年10月19日│連絡船の町プロジェクト・勉強会

スターナビゲーション(西太平洋ミクロネシア)

西太平洋ミクロネシア南部のカロリン諸島は、パラオ諸島やヤップ島など、伝統や魅惑的な伝説に包まれた地域です。
その魅力溢れる島の人々の生活において、海と陸とを結び付ける大切な乗り物がカヌー。しなやかで美しいフォルムのカヌーは、金属性の釘や設計図は使用せず、現地で取れる素材と伝統の製法によって全て手作業で作られ、その航海方法も更に興味深いものがあります。位置を確認するために頼りにするのは、風、空、海流、海の深度、魚や鳥の動き、星の位置。動力になるのは草木で編まれた帆と、カヌーを漕ぐ人の力だけ。計器や羅針盤も一切使わないこの航法は「スターナビゲーション」とも呼ばれていて、そんな航海の旅をする地球最後の航海民族がヤップ島をはじめとするカロリン諸島には残っています。

1975年には、「チェチェメニ号」で47日間をかけて、ミクロネシアから日本の沖縄まで3000kmの航海に成功した例もあります。その「チェチェメニ号」の現物は現在大阪府の国立民族博物館に展示されおり、全長8mの勇壮で美しい船体は迫力満点です。
そんなカヌーに乗って、スターナビゲーションの航海に出れば、あとは全て自然と運と経験まかせ。考えるとすごく不安になりますが、現地の男性たちはたくましく、伝統や経験を受け継いで航海に出ているのだと思うと、尊敬せずにはいられません。

また、現在ヤップ島では毎年10月頃に「ヤップ・カヌーフェスティバル」が開催されていて、伝統のカヌーレースやダンス、ナイトマーケットなど、伝統の技を継承するヤップスピリットを体験することができます。
現地にある素材を集めて作ったカヌーで島から島へと移動し、素朴ではあるけれど豊かな暮らしをするミクロネシアの人々。瀬戸内海を行き来する多くの定期船も同じように、私たちの生活を豊かにし、いろいろな形で支えてくれているのだなと思いました。

【担当:藤井 美帆】
 


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